コウノトリブログ

コウノトリ普及推進員のブログ㉛ 飼育員時代をふり返って 自己紹介

いつも「コウノトリと共に生きる豊岡」をご覧いただき、誠にありがとうございます。
豊岡市コウノトリ共生課が運営する公式サイト「コウノトリと共に生きる豊岡」で、「コウノトリ普及推進員のブログ」を担当している船越です。
これまでの「コウノトリ普及推進員のブログ」では、コウノトリの情報やこれまでに得た知見などを紹介してきましたが、今後は私自身の経験やエピソードも発信し、記録として残していきたいと思います。
今回は、皆さんにより親しみを持って読んでいただくために、私の自己紹介をさせていただきます。

私は19914月に飼育員として豊岡市へ採用され、1999年から2024年3月までの約25年間、兵庫県立コウノトリの郷公園で主任飼育員を務めました。

飼育員としての32年間は、コウノトリにとって非常に大きな変革期でもあり、私自身も多くの経験を積むことができました。
飼育員になったきっかけは、「コウノトリと暮らすまち」の著者である佐竹節夫さんと喫茶店で偶然出会ったことです。
コウノトリのすばらしさや未来について熱く語られ、「飼育員を募集するが受けてみないか」と言われ、その一言が私の人生を大きく変えました。
当時佐竹さんは、豊岡市教育委員会社会教育課文化係長として文化財としてのコウノトリを担当されていました。
私の最初の職場は、「特別天然記念物コウノトリ飼育場」(現在の兵庫県立コウノトリの郷公園付属施設・保護増殖センター)でした。

進入路入口の木柱 豊岡市は委託管理者として飼育場を運営 1999年3月

動物飼育の経験がなかった私にとって、松島興治郎さんは、長年の苦労の末にコウノトリの飼育下繁殖に成功された尊敬すべき方で師匠でした。
松島さんについては、兵庫県立コウノトリの郷公園ホームページの「コウノトリ野生復帰事業の足跡」をご覧ください。
松島さんは昔ながらの職人気質で「俺の背中を見て覚えろ」という教え方のため、新人の頃の私は、仕事の意味がなかなか理解できず、愚痴をこぼしたこともありました。

左:飼育員になった1991年頃の保護増殖センターの管理棟  右:冬には毎年のように大雪で除雪が大変でした

私の主な仕事は、人工繁殖(専門的には飼育下繁殖といいます)に関することでした。
特に、人が親代わりとなってヒナを育てる人工育雛では、生き物相手の喜びや楽しさ、そして厳しさや悲しみを知り、「手を抜いてはいけない」という飼育員としての姿勢を身につけました。
また、松島さんからは、コウノトリの立場に立って考え、行動することの重要性を教わりました。
例えば、餌の一つにドジョウを使いますが、死んだドジョウは取り除きます。
飼育員になって間もない頃、私が選別せずドジョウを使っていた時、松島さんから「もし自分の食べ物に古くて悪くなっていたものが入っていたら嫌だろう。鳥は与えられたものしか食べられないから、自分がされて嫌なことは決してしてはいけない」と諭されました。

私の飼育員時代の信条は「飼育員はコウノトリの代弁者であれ」でした。
コウノトリの立場に立って考え、その気持ちを伝えることこそが飼育員の役割だと松島さんから学び、それが私の基本姿勢となりました。

1995年当時 左が松島さん 右が私

これまでに多くのコウノトリに出会い、多くの方々から学びました。今後のブログでも、そうした出会いや学びについても紹介していきたいと思います。

《Episode》 エピソード  -飼育員としてのスタート-
飼育員として働き始めてしばらく経った頃、他の自治体の新人職員と合同で行われる2泊3日の研修に参加しました。この研修はバスで移動しながら、各自治体の施設を見学するものでした。
1日目の午後、朝来市和田山町付近でバスが停車し、豊岡市の職員から「豊岡市の佐藤さん(旧姓)、降りてください。迎えに来ました」と声がかかりました。その足で「コウノトリ飼育場」へ戻りました。
その日はちょうどコウノトリのペアからヒナがふ化する予定日でした。当時の上司(松島さんでない方)が「研修に参加している場合じゃない。ヒナのふ化を見守ることのほうがよほど大切だ」と言い、迎えに来てくれたのです。
個人的には驚きと信じられない気持ちでしたが、コウノトリへの熱意が非常に強い方が多く、そんな方々と一緒に働けることが心地よかったのを今でも覚えています。
そして、波乱に満ちた飼育員生活のスタートでもありました。

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