コウノトリブログ

元飼育員のコウノトリブログ⑮  出石町小坂地区のコウノトリにまつわる話 -その1-

コウノトリブログ⑬“松とコウノトリ”で小坂地区について書きました。
今回は、江戸時代から昭和にかけて、小坂地区のコウノトリとの関わりについて書きます。

但馬でコウノトリの最も古い記述は、但馬国の地誌『校補 但馬考』の「仙谷實相公年表略」に書かれている出石藩での出来事です。
「延享元年甲子 『25日、下郷島村に鶴の下り居れるを聞き、俄か(にわか)に出馬を命じ、片間沖に於いて自ら放鷹(ほうよう)して之を獲、同9日、賀宴を開き老臣以下諸役人を饗す(もてなす)』」
但馬国地誌『校補 但馬考』 桜井勉著 

内容は、174425日、当時の出石藩三代藩主仙石政辰(まさとき)は、小坂地区嶋にコウノトリが下り立っているのを聞き、すぐに出馬して同地区片間で鷹を放って捕まえ、家臣にふるまったという話です。
何とも但馬で初めてのコウノトリの記述が食べられた記録とは…。
『コウノトリと暮らすまち』の著者の佐竹さんは「この当時、殿様が急ぎ出向いて狩りをするほどコウノトリは珍しい鳥であったのでは」と推察されています。

参考:『コウノトリと暮らすまち』佐竹節夫著 出版 農文協

江戸時代後期の絵図面では、豊岡藩田鶴野地区の圃場に鶴(コウノトリ?)2羽が描かれている。

コウノトリの話をする際、「かつて江戸時代には、全国に生息していました」と説明しています。
江戸時代は、1603年から1867年の265年と、とても長い時代です。
江戸時代の「生類憐みの令」は、「天下の悪法」と言われますが、動物にとっては違うようです。
「生類憐みの令」以降、動物保護の思想がその後も受け継がれ、動物にとって住みやすい国になったと言われます。
コウノトリも他の動物同様、江戸時代265年の間に生息地が全国へ広がり、個体数を増やしていったのではと推察します。

小坂地区鳥居には、山号にコウノトリの名前が付いたお寺があります。
山門に立てられた寺標には、「白鶴山 善立寺」と書かれ、山号にある“白鶴”は、コウノトリとのことです。

「善立寺」の山門

善立寺前住職の宮本公朗さんから、1920年頃お寺の裏山で撮影されたコウノトリ営巣の写真パネルを見せていただき、貴重なお話も伺いました。
「山号は、お寺の特徴をつけます。創建当時(おそらく室町時代 焼失して1603年以前の記録がない)、裏山にコウノトリが巣をかけていたので、“白鶴”とつけたのだろう。
私の子供の頃(約80年前)は、森井山(となり区の山)から裏山(鳥居)にかけ複数のコウノトリが巣をかけ子育てをしていました。
当時、雑誌や新聞記者の方が取材に来られ、頼まれて営巣場所を案内したことを覚えています」とお話しされていました。

お寺にある1920年頃に善立寺の裏山で繁殖していたコウノトリの写真パネル  後ろに見えるのがお寺の庫裏

『コウノトリと暮らすまち』にも、以下のように書かれています。
「出石町片間地区の吉谷富蔵さんも『20歳の時に終戦を迎えたが、戦争中も変わらずコウノトリはいた』と証言される」
1950年代の保護活動が始まるまでは記録が少なく、当時を知る貴重な証言となります。
また、コウノトリの子育てを見学する茶店が出ていたころから、この周辺では、コウノトリの繁殖が続いていたと考えられます。

1943年小坂地区片間で繁殖している様子

その後、コウノトリは徐々に個体数を減らし、1971年に日本の個体群は姿を消しました。
そして、2005年コウノトリの野生復帰を目指した放鳥が開始されました。
次は、小坂地区でかつての光景の復活を夢見る方々の取組みについてご紹介したいと思います。

 

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